2カ月前の8月、隠岐の島の大人の島留学に行く20代の女性が宿泊され
いつものようにバーカウンター越しに
まずは大人の島留学についてなどいろいろ
おはなしを聞かせていただきました。
その中でご両親の話になったときに
そのおとうさんが昔ハンググライダーをしていたとの話がポンとでてきました。
私も一時期ハンググライダーをやっていたとこともあると話すと驚かれ、
いつかお父さんにもお会いできたらとお話をしていました。
そして
先日そのご両親が娘さんに会いに隠岐の島へ行かれ、
その帰りにかたゑ庵へご夫婦で今回ご宿泊いただきました。
娘さんからぜひ、と聞いて泊まりに来たとのこと。
ありがとうございます。愛知県から来ていただいた小池ご夫妻。

また今回もバーカウンター越しにお話を聞く中で、
自然とそのハンググライダーの話題になりました。
それを聞くうちに共通のキーワードがでてきます。
当時お世話になったハンググライダースクールの校長、川瀬氏の名前
当時のフライトエリアの霊石山
そこからさらに、驚いたのが
そのころ、大山山頂でハンググライダーでのNHKの取材撮影があったこと。
それに続いて、
そこに撮影に参加していた彼の知人のパイロットの名前がでると
その自分の記憶とその符合に驚きの声が思わずでました。
それは、その時、間違いなくお互い大山山頂で、同じ日同じ場所で出会っていることがわかった。
その瞬間から
昔の出来事が蘇り、お互い時間を忘れて当時の話に花が咲きました。
当時1985年
NHKが国連の国際青年年に合わせて全国のユニークな活動をしている若者たちを取材していた。
私が当時所属していたハンググライダーのチームにもその取材の話が来て、
大山山頂からのフライトのようすを特集でとりあげたいと。
それは、また国際青年年キャンペーンに放送でも使うと。
そこで、大山の山開きに合わせて行うことになり
当時島根・鳥取両県の山陰でハンググライダーしていたパイロット5名が協力することになった。
私も、その中のひとりとなった。
そのNHKでのハンググライダーの機体運びのポーターを募っていたことで、
それに参加していたのが今回のゲスト小池さんだったことがわかった。
さらに小池さんは当時鳥取大学の学生で、ハンググライダー部に入り、
大会では優勝してた優秀なパイロットということもわかった。
私が利用していた霊石山フライトエリアでも大学生がよく来ていたので
そこでも会ってただろうというはなしでも記憶を辿りながら盛り上がった。
40年を経てこのゲストハウスで再会するとは、思ってもみなかった。
もし
娘さんが隠岐の島の大人の島留学で島根に来なかったら
私がこのゲスハウスをやっていなかったら
かたゑ庵へ泊まってなかったら
娘さんがお父さんのお話をしなかったら
どれかひとつでも欠けていたら
この再会はなかったと思う。
このすべての偶然に感謝したい。
今後もスカイスポーツをしている方が宿泊されることがあれば、
共通の話題のきっかけになるかもと思い
久しぶりに当時のアルバムを引っ張り出してきて
今回はその時の写真を参考までに少し載せて当時の記憶を辿って、紹介させていただきます。
また、このかたゑ庵のブログでこのハンググライダーのことについて書くのは初めてですので
今回の再会をきっかけに、私の20代、青春のアーカイブのひとつとしてここに当時の記録として残しておくことにもしました。
1985年、大山の山開きの前日、登山口にハンググライダーをカートップに乗せて集合。

重さは30KG以上の折り畳んだ長いハンググライダーの機体を担いで登る。
私がハンググライダーをはじめた当初は、基礎練習のため鳥取砂丘の馬の背の頂まで、
ひとりで担いで登ったがとてもきつかったことを思い出す。
現在はハンググライダーは馬の背では使えないようだ。砂丘の別な場所で行っているとのこと。

この長い機体5人分5本を何人か交代で山頂まで運ぶ、カメラマンがそれを撮影しながら登るので
通常の2倍の時間が登頂までかかった。
パラグライダーがまだ普及していない時代であったので
今ではハンググライダーでこんな面倒なことする人はまずいないでしょう。

山頂の山小屋で夕食をして一夜をすごす。以前の山小屋を知る方は懐かしい室内の様子だろう。

翌朝、山頂での機体の組み立てがはじまる

大山の山開き山頂祭の神事にパイロットやポーター・NHK関係者も参加する。

この時のNHKのリポーターが右の鉢巻の人。それが当時、NHK米子支局のアナウンサー道谷眞平さん。
この方は、のちにシドニーオリンピックの柔道の篠原vsドゥイエなど様々な大会の実況中継をはじめ、
スポーツ実況で定評のあるアナウンサーとなられます。

同行されたカメラマンと音声クルーも過酷な撮影だったと思う。

まず3機が無難にテイクオフ。そして、私のフライトの順番がまわってきた。
山開きのために登ってきた登山客の多くの視線を浴びながら風を待つ。
この時、今回かたゑ庵にご宿泊された小池さんはこのフライトの瞬間を40年前に見ている。
昔のハーネスは、今とは違い体がむき出し。そのため現在のものより風の抵抗もかなり大きかったと思う。
緊急補助パラシュート(手元の黒い四角い部分に格納)は当時でも必須。
現在も持っているがリパックしてないので、もうまく開かないだろうし使うこともない。
バリオメーター(昇降計)は当時高額で、私はつけていなかった。
これがあるとサーマルをうまく生かせるのだが。

下界を見ると最初少し雲がかかっていたが視界が良くなってきた。
ここから飛び出して岸本町方面に向かう。そこは農家から借りた休耕田の場所にタイヤを燃やして狼煙(のろし)にした目標へ。
5名のパイロットは全員そこへ向かう。
着陸の様子を映すためカメラマンがそこで待機する。そのほか同行するカメラマンやヘリコプターから空撮のカメラマンなど
当時としては大掛かりな撮影チームだったのだと思う。

向かい風が左右の頬をなでる。顔を左右に少し振り、真正面からの風を左右の耳から感じるこの感触を思い出す。
スタンバイOK。後ろで心配そうに見ているのが道谷アナウンサー。

そしてテイクオフ。すぐにアップライト(上の写真の状態)から体を前に倒して水平になり下のコントロールバーを掴み、同時にフットバーに足をかける。
体はナイロンベルトのスイングラインとカラビナの一点で機体にぶら下がっている。
左右の体重移動とコントロールバーの押し引きで操縦する。
下の写真は、右に体重を移動して右に旋回している状態。

テイクオフ地点から少し上昇し、着陸ポイントを目指す。
風を切る音がからだを包む。

NHKが広島からチャーターしたヘリコプターからの空撮もはじまっており、フライト中パタパタとヘリの音が間近に聞こえた。

そしてNHK放送時のタイトルは、『爽快・大空へ挑む』となった。
この番組では、同時に大山の一木一石運動も取り上げ、50分の特集となる。
その後、この番組を数分に再編集され、国際青年年のテーマ曲佐野元春 – Young Bloodsが流れ
そこに大山頂上を目指し、このフライトに至るシーンが朝ドラの後にしばらくの期間、連続して放送された。

そもそも
私がハンググライダーをするようになったのは、
それ以前に、
元々はスキーが一番好きで、言うまでもなく『私をスキーに連れって』世代。
当時は毎年、スキーシーズンは近くの大山はもとより
年末年始の休日にスキーツアーの夜行バス(当時の山陰中央トラベル、担当Fさんにお世話になってた)に乗って、
長野県の野沢の麹屋さん宿泊でスキー三昧で毎日過ごした。
もっとうまくなりたいと、野沢の富井スキースクールでも鍛えていただいたのだが
地元でのスキー検定のテクニカルプライズに一度挑戦し、受からなかった。
そんなこともまでも思いだした。
スキーシーズンが終わっても5月の連休はスキーを担いで列車に乗って雪のある立山や尾瀬の至仏山などでも登って滑っていたが
それ以降のオフシーズンにできるものを探していた。
中でも特に人力できるものに魅力を感じていた。
なので当時、ディンギーのヨット・ウインドサーフィンン等のマリンスポーツも宍道湖で始める中、
プロのスキーヤー只野直孝氏もその当時ハンググライダーをはじめていたこともあり、そこからスカイスポーツにも挑戦するようになる。
後に、大田の三瓶山でスカイスポーツフェスティバルがあり、ボランティアスタッフとして関わりながら、デモ飛行された只野直孝氏にもその時お会いすることになる。
さて今回長くなりましたが
スカイスポーツをやっている方、やっていた方。
のみならず、
何かに一生懸命取り組んでる方
これから取り組もうと思っている方
何かおもしろいことやってる方
やろうとしている方
かたゑ庵のバーカウンターで
今度はあなたのお話をぜひ聞かせてください。
お待ちしています。