阪神淡路大震災、25年前の支援活動、今に生かせるヒント。

今日で、あの阪神淡路大震災から25年。

その特別な日に、多くの皆さんにぜひお伝えしたいことがあります。

それは25年前の神戸市長田区のYMCAの支援活動、

今でもきっと生かせるであろう支援活動の当時のすばらしいノウハウをぜひお伝えしたい。

特に、こういった災害があると、多くのボランティアが被災地に出かけるものの、一方受け皿の体制が整わず、支援を断るケースをよく聞くことがあります。

これを解決する方法のひとつがこれからお話をする、私が25年前にお世話になった長田区のYMCAが行っていた支援方法。

その特徴は、一言で言うと、1日完結型のシンプルで即活用できる支援方法。

それがとてもよくできていました。

これからそれを順を追って当時の体験をお伝えします。

 

阪神淡路大震災後、何か私は支援活動ができないかと情報を集めていた。

どこに行けばどんな活動ができるのだろうかと。

まだインターネットも今ほどの情報量はなかった。

支援活動の受け皿としての長田区のYMCAを新聞で見つけ、

早速記事に乗っていた電話番号にかけで問い合わせを行う。

支援活動に来てもいいとの了解をもらいすぐに、

ボランティアの参加者を募る。

私が所属する国際交流のメンバーや友人に声をかけ、

ワゴン車1台で6人、食料・水やテント・寝袋を積み込んで神戸に向かった。

そのYMCA本部へは直接車で乗り付けることができず、

途中、車を置いて、神戸市内から辛うじて動いている区間限定の電車と徒歩でYMCA本部に着く。

そこにはたくさんのボランティア希望者が全国から集まっていた。

そして、受付には、初心者と経験者の二つの机があり、そこで申込書に必要事項を書く。

私たちは初心者なので、初心者の机で申込書を書いた。

すると、経験者と書かれた名札の人が来て、説明を始めた。

ここでは、今回の支援活動に参加して一日最後まで参加すれば、自動的に”経験者”として次の役割が与えられるというルールとなっていた。

その経験者は初心者に活動の説明をする役割の流れとなる。

説明に来た経験者は、自分が初心者の時に教わり実践した内容を伝えながら説明してくれた。

その内容はこうだ。

まず、初心者は、ゼッケンを受け取りそれを付ける。

そして、コピーされたゼンリンの地図を受け取る。

その地図の説明がはじまる。

地図には、長田区の家にそれぞれに印がついてあり、すでにだれかが行ったか行かないかが

わかるようになっていた。

私たちのミッションは、

その中のまだだれも訪問していない被災者の家に行って、

そこにいる被災者の状況を調べメモすることと、

そこにいる人が必要としている支援物資を聞き取り、

その情報を本部へ持って帰ること、これを午前中に行う。

そして、本部に帰ると、全国から集まった支援物資の中から、

先ほど聞き取りをした、被災者が必要とする支援物資を自分で探し、

それを午後からその被災者に届ける。

ここでのポイントは

聞き取りをした本人が被災者希望の支援物資を探すので、希望通りのものを見つけることができる、一方それがない場合でも、

用途がわかっているのでそれに近い代用品を持っていける事。

また、被災者の聞き取りの中で、家具の移動や廃材の撤去などの依頼があれば

いったん本部に帰り、必要とする道具を揃えたり、人手が足りなければ応援を頼み、午後にそれを行う。

ここでのポイントは、

午前中現場を直接見て状況がわかっているので、どれだけの人数が必要か、そこでどんな道具がいるのか

道具がなければ何か方法がないか具体的により効果的な検討ができる事。

また、このミッションは初心者の場合、経験者1名以上が午前も午後も同行し行われる。

ここでのポイントは、

経験者が同行することで、初心者でも安心して支援活動ができる事。

このYMCAの支援方法を整理すると、午前中のミッション(情報収集に徹する)と午後からのミッション(午前の情報から考えられる自分で可能な活動)が連携し、

初心者と経験者という役割分担もとてもシンプルで、いつでもだれでも一日だけの支援活動でも

可能なシステムになっていた。

 

私は当時この仕組みがよく考えられていると、いたく感心したことを思いだします。

またいつかはこの仕組みをどこかで生かせたらと思っていました。

ただ、この一日完結型の仕組みがすべての災害時に当てはまるとは限らないし、

25年後の今は、インターネットを使ったもっと効率的な仕組みがあるだろうとは思います。

しかしもし、インターネットが使えなかったら、この仕組みは生かせる場面があるかもしれない。

いやインターネットがつながっていたとしても生かせるとも思います。

それは、当時、ホワイトボードや付箋紙などのアナログが一番利用され活用されていたことを思いだされますから。

いつか災害があった時、多くのボランティアが集まってきたときは、この方法が使えないか、

ぜひ思い出していただいたらと思います。

 

ついでに、阪神淡路大震災の支援活動の当時のエピソードの一つをお伝えしたい。

最初の支援活動で長田区の家を回っていた時にそこの被災者の方がこう言った。

「外人が家の前に来て、近づいてきて怖かった」

いろいろ聞いていると何か危害を加えたわけでなく、怖い声で威嚇したわけでもないが、

ことばも通じなく、きっとパニックになったんだろうと思った。

そのことを松江に帰ってから、知り合いの留学たちに話したら、

私たちもそこに支援に行きたい、また外国人は怖くないと伝えたい、

ということになり、2回目は2台のワゴン車で行き、

留学生たちは私が行った場所へ行き、精力的に支援活動を通じ被災者たちとコミュニケーションしてくれた。

留学生にとっては、自分たちができる受け皿と活動ができたこと、そして被災者のほほえみ返しが大きな喜びとなったことは確かだ。

当時そこでの活動した時の写真はどこかになかったかなと振り返ると、

カメラは持って行っていたがカメラを向けることが憚られるそんなムードがそこには

あったことを思い出す。

支援の在り方が、当初の生活物資の被災者への敏速な供給から、時間とともに次の段階へ進み、

人のプライド尊重し、それを傷つけない支援が2回目の訪問時にはそれがボランティアに求められていた。

そのことは、YMCAで、第一番に強調され、そこに来たボランティア全員に伝えられた印象深いメッセージであった。

 

2日前、片江でとんど焼きがあり、そこで燃え盛る火の前で、墨になっていく竹やしめ縄をぼーっと眺めながら、震災でのあの町の同じ臭いが重なった。

あれから25年も経ったのか。

当時の教訓を何かに生かすことが私たちの務めでもあるだろう。

改めて震災によりお亡くなりなられた方々のご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

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